15、イエメン男の象徴ジャンビーア

イエメンのサナア空港に降り立って、真っ先に目につくのは、ジャンビーアという短剣を腰に差した男達である。これは、アラブ諸国の中でも、主にイエメンだけ に見られる現象である。
ジャンビーアとは、三日月型をした、大きさは30cmぐらい、幅が10cmぐらい、厚さが2cmぐらいの鞘に納まっている、短剣である。一応、剣ではあるが、人を傷つけたりする目的では用いない。民族衣装の一部のような感覚で、彼らは身につけている。
ジャンビーアは、一人前の戦士であるという証なのだそうだ。部族間抗争の際に、勇気を持って戦えないものはジャンビーアをさす資格はない。これは、誇り高きイエメン人の勇気の象徴なのだ。まだ、10歳そこそこの子供までもが、意気揚々と小さい子供用のジャンビーアをさして、街を闊歩している光景は微笑ましくもあった。

もし、喧嘩をして、ジャンビーアを振りかざしたり すれば、その人は、相手に対して、罰金を払わなければならないと言う。
ジャンビーアの値段は、それこそ、ピンからキリまでだそうだ。由緒正しい家に伝わるものは、値段のつけようがないほど高いものなのだそうだ。
私のガイドも一応イエメン人。
しかし、彼は、民族衣装があまり好きではないらしく、いつも、シャツにズボンといういでたちだったので、私は民族衣装姿が見たいとお願いしてしまった。すると、彼は、最終日、民族衣装で登場してくれた。
腰には、もちろん、ジャンビーアをさして。
そのジャンビーアは、とても、立派なもので、とても高いものだと言っていた。彼のお父さんが、彼がジャンビーアを持つ年頃になったときに、買ってくれたものらしい。値段は、日本の時価にして、約800万円ぐらいらしい。(すっごーく、高くてビックリ)何でも、ジャンビーアの一番の価値は、剣の取っ手の部分らしく、これが値段を左右する。彼の取っ手の部分は、アフリカサイの角から作られていると言うことだった。
私もさっそく、5歳の甥っ子へのお土産として、子供用の小さなジャンビーア(800円)を購入してみた。(しかし、甥っ子は、そのせっかくのお土産をうれしがらなかったひどい奴だ、私が取り返そうかと思っている)

北と南では、このジャンビーアを身につけている率は異なるらしいが、私が見たところでは、多くの男性がこのジャンビーアを身につけていた。きっと、これがないとイエメンに来たという実感は得られないであろう。



16、旅は道連れ

ヘンナという植物の染料を使って、手に模様を描く女性特有のおしゃれをある家に行ってやって貰っている間に、私のガイドが、日本人の男性2人と女性一人の三人組と話をしていた。

彼らは、乗合タクシーに便乗して、この村まで来たのだが、もう夕方になってしまって、 おまけに霧が立ちこめてきたので、帰りのタクシーが捕まらないとのことで、 私達のランクルに乗せて欲しいと、ガイドにお願いしていたそうだ。

サナア近郊は、標高が高いので、夕方になると、霧深くなることもある。ガードレールなど無い、九十九折りの道のドライブは昼間でも、結構、怖いものがある。ましてや、ガスっていたりしたら、それこそ、恐怖のドライブとなる。
そこで、ガイドは、「僕は、車に乗せるのは、全然構わないけど、じゅんこに雇われているから、彼女の了解を得ないと返事はできないんだ。彼女がいいと言えば、もちろんオーケーだよ。」と説明していたらしい。
そのいきさつをガイドから聞いて、断る理由ももちろんないし、第一、困っている日本人を見かけたら、車に便乗させてあげるのぐらいお安いご用である。「そんなの、いいに決まってるじゃなーい。」って私の一言で彼らは、嬉しそうに車に乗り込んだ。
みんなは、同じ宿に泊まっている人達で、それぞれ別々にイエメンに来ている人達だった。

女の子は、偶然にも私と同じ名前で、漢字も同じだったので、話が盛り上がり、じゅんこ1、じゅんこ2と呼び合い、帰り道はとても楽しい珍道中となった。一人の男の子が、途中で降りて、西の方の街に今日中に行きたいと言うので、ガイドがタクシー乗り場まで、送ってくれることになったが、あいにくの霧で、タクシーはどこにもいかないと言う。仕方がないので、ガイドによると、警察官がいる検問所までいけば、必ず、そこへ行く 車が見つかるとのことで、その場所まで連れていってくれた。そして、やっと、西の方へ行く車が見つかるとのことで、彼は車を降りていった。しかし、辺りは真っ暗。
彼は、果たして無事に行けたのか、心配だった。

ガイドは、彼らを宿に送り届けてから、
「僕は、君が絶対にイエスっていうとは思っていたけど、実際、こういうことは、ヨーロッパ人の間ではよくあることなんだよ。でも、彼らの殆ど80%ぐらいは、こういう場合には、『俺がお金を払って雇った車になんて、お前らなんて乗せない』と言うんだよ。」と こっそりと打ち明けた。
ホントにそうなんだろうか?
外国で同郷の人が困っていたら、助けてあげるってのが普通だと思うんだけどなぁ。

ついでに、同郷人じゃないけど、イエメン人の中学生がヒッチハイクしていたので、彼も車に乗せてあげた。はじめ、ガイドは、その子がヒッチハイクをしていても、私がヒッチハイクの人までも 乗せてあげるのは嫌がるだろうと思ったのか、だまって通り過ぎようとした。「あの子、可哀想だから、乗せてあげようよ」とお願いしたら、ガイドは来た道をわざわざ戻って その子を乗せてあげた。
その子は、村には学校がないので、五キロ離れた、別の村の学校まで通っていると言う。毎日、五キロも離れた学校に通うのは大変なことだろう。普通の舗装してある道路じゃない、ごろごろの岩がころがっている、砂利道を歩くのは、とても疲れる。それは、すでに私も身を持って体験していたので、その子の大変さが良く判る。
頑張って学校に通っている、その子は、とてもシャイで、ほとんど会話をせずに降りてしまったが、振り返ると、手を振りさわやかに合図をしてくれた。



17、ガイドとハニー

シバームとコーカバンという有名な村に行った。
ここでは、村に一歩足を踏み入れると、アッという間に子供に取り囲まれ、お土産品を売りつけられるはめになる。有名な村なので、観光地ずれしているようだった。
彼らは、流暢な英語で、「シルバーのジャンビーアのブローチ買わない?一個5ドルだよ。ほんまもんのシルバーだよ。」と売り込みに必死だ。
手にとって見てみると、なかなか精巧なつくりのかわいいブローチで、ペンダント・ヘッドにもなる代物だ。しかし、シルバーのジャンビーアが一つ、五ドルとは、高いような気がしたので、
「一個、五ドルって高くない?一つ三ドルにしてくれるんなら、まとめて10個買うよ。」と交渉を持ちかけてみた。
すると、その子達は諦めたのか、突然いなくなってしまった。

また、歩いていると、こんどは別の子供がジャンビーアのブローチを沢山もって売りに来た。また、同じように交渉したら、一個三ドル、まとめて10個でオーケーだと言うので、 その子供から、ブローチを買ってしまった。

するとしばらくして、さっきの子供達が戻ってきて、
「はい、ジャンビーア10個。手元には3個しかなかったから、1キロ先の家まで取りに走って戻ったんだよ。」
「え?知らなかったよ、そんなこと。黙っていなくなるんだもん。もう、10個別の子から買っちゃったよぉ。」と言うと、その子は肩を落として、
「ひどいよぉ。僕達、わざわざ、家まで取りに行ったんだよ。それなのに、別の子から買うなんて!」と怒り始めた。

でも、本気で怒っている風でもなく、私たちの後をずーっとついてくる。崖の絶壁に一軒だけ建っている、コーカバン・カフェテリアという店に入ろうとすると、 そこまでもずーっと後をついてきた。
そして、いつまでも、譫言のように「ジャンビーア10個」と言い続けている。いいかげん、頭にきそうなもんだが、その子達は何故か憎めない子で、仕方がないので、言いたいように言わせて置いた。

カフェテリアに到着してもまだ、後をついてくるので、中に一緒に入った。ここは彼にとっては庭みたいなもんらしく、お店のお兄さんとも顔みしりのようだった。
そこで、私はシャーイ(紅茶)を頼み、その子達にはペプシを注文してやった。

「君の名前は?」

「じゅんこ」

「ふーん、僕の名前はガイド、こいつはハニーっていうんだ。」
(なんだか、冗談のような名前だ。ちなみにガイドは安達裕美を男の子にしたような かわいいお顔をしており、ハニーの方は名前に似合わず、猿みたいな顔をしていた。)
「英語にもあるから、覚えやすいだろ?」

「君たち、随分と英語の発音もいいし、英語が上手いけど、学校で習うの?」

「うん、英語とアラビックとコーランの授業があるんだよ。僕は、英語の授業が一番好きなんだ。」

「君たち、何歳なの?」

「僕は、14歳。ハニーは、15歳。君は19歳ぐらい?(え??)僕たち、2人合わせたら、29歳だから、2人で君のハズバンドになってあげるよ。年もちょうどいいだろ?ムスリムは、ワイフを4人まで持てるけど、君はムスリムじゃないから2人のハズバンドを持てるよ、きっと。」
なーんて、一丁前の口をきく。
そう言ったそばから、

「僕は、まだ、さっきの事怒っているんだ。あんなひどいことをするなんて、君なんて、僕のワイフじゃないよ。」と、漫才師並の口調で彼の話は続く。

そして、結局、話は「ジャンビーア10個」という話に戻るのであった。そして、ガイドとハニーはいつまでも怒った(フリ)をしていて、逆に愛嬌があったので、
「しゃーないなー、ジャンビーアを3個だけなら、買うよ。」と言うと、
「えー?3個だけぇ?せっかく家まで取りに入ったのにぃ。」と口をとんがらせて文句を言っていたが、それは無視しておいた。
財布にプリクラがあったので、これ記念にあげるよというと、
「わ〜い、ワイフの写真だぁ。お返しに、僕の写真もあげるよ。」と言われ、妙に真面目な顔つきをしている、彼の写真をいただいた。そして、裏には、ガイド&ハニーというサインとハズバンドという署名まで入れて。(ハズバンドのスペルが間違っていたが)
ついでに、彼らは、道ばたに咲いていた、綺麗な花を摘み取って、「はい、これ。僕のワイフにあげるよ。」とお花までくれる始末。
若干14、5歳にして、彼らは、並々ならぬ商売根性を身につけていた。彼らの態度は、はっきり言えば、ずうずうしいのだが、嫌みがなく、素直に受け入れられるものだった。彼らが、大きくなったら、どういう青年に成長するのか、楽しみだわ〜。

しかし、イエメンの名誉のために言っておくが、イエメンの子供は、一般に純粋な子供のほうが多かった。観光地化がすすんでいる地域では、観光客があげたことがあるのか、通りがかると、必ず、
「カラム、カラム(ペンちょうだい)」とか、「お金ちょうだい」と言われるのだが、 あまり、観光客がいかない地域では、子供達は、初めは怖いものでも見たような反応を する。
そのうち、その中でも勇気のある子供がしゃしゃりでてきて、「君、なんて名前?」とか、話しかけてくるようになる。
一度、男の子が、学校帰りなのか、背中に鞄をしょっていたので、中身を見せて貰った。ノートが一冊はいっていて、理科の授業か、植物や動物の絵とアラビア語がのたくった ノートを見せて貰った。
「へぇー、結構、一生懸命勉強しているじゃないの。」と言うと、恥ずかしそうにエヘヘと笑みを返してくれた。
その子に、「君は、何歳なの?」と聞くと、
「Am I thirty.」と、言う。どうみても、30歳には見えないので、多分、「I am thirteen.」と言いたかったのだろう。でも、片言の英語でも一生懸命言葉を返そうとしている、その子はとても可愛げがあった。



18、サナア大学見学

サナアにだって、大学はある。
大学には、どのような人が通っているのか、見てみたいと思っていたし、一体、サナア大学のキャンパスはどうなっているのか興味があった。

イエメンでの滞在も残り半日となった時、ガイドが「君が前に見たいって言っていた場所へ連れていこうと思うんだけど、どこか覚えている?」と聞いてきた。
私は、いろんな行きたい場所を挙げていたので、サナア大学を見てみたいと言ったことは すっかり忘れてしまっていた。
「え?どこだっけ?」と答える私に笑いかけながら、彼は、
「じゃあ、今、ここでこれから行く場所を教えるか、それとも、行ってからのお楽しみか どっちがいい?」と言う。
「そりゃあ、お楽しみの方が楽しいに決まっている〜。」と答えると、彼は、よっしゃぁとばかりに、車を飛ばし始めた。

旧市街からわずか車で10分程の場所には、大きな校門があり、大学のキャンパスの中は、中央に大きな道路があり、その両脇に、各学部の校舎やら、寮などの施設が<建っていた。
建物は近代的なもので、経済学部、商学部、法学部、建築学部・・・などの学部の校舎が それぞれ別れている。
奥の方には、教授専用の住居やら、学生専用の寮も見えた。

休み時間だったのか、多くの学生が校舎の入り口から出てくる。学生は、イエメン人のみならず、他のアラブ諸国からの学生もいるらしい。男女の比率は、男性が75%、女性が25%とのことだった。女性の殆どは、黒装束の格好をしていた。
サウジアラビアでは、大学でも男女の区別がはっきりと別れていて、女性の授業では、男性の先生による授業は、テレビ・モニターを使って行うということを以前、聞いたことがあったので、そういう区別はあるのかと尋ねると、サナア大学は男女共学だから、そういう区別はないとの返事だった。

また、車に乗って更に別の場所へ行くと、そこには、医学部の校舎があった。
他の学部は、入ろうと思えば、中に入れそうだったが、医学部は何故か門のところに警備員がいて、中に入るには、証明書がいるらしい。そんな、証明書なんてものは、当然ないので、裏から回って校舎を眺めることになった。
「医学部は他の建物よりも更に清潔なんだね。」と言うと、
「だって、医学部だもん、清潔なのは当然だろ。」と言われた。(そりゃ、そうだ)

まだまだ発展途上のイエメンではあるが、こんなに立派な大学が存在している。
入学試験も難しいとの話である。
ここの学生たちが、将来のイエメンを担っていくのかもしれないなぁ。



19、スペシャル・フォア・ユゥー

さて、今までの話を読んでいただければ、私のガイドがいかに、いろいろやってくれたか おわかりになることでしょう。
しかし、彼はとっておきの場所へ、私を案内してくれたのだった。
その日は、朝から、砂利道を歩きっぱなしで、標高も高いので、私は、頭痛をおこして しまった。しかし、頭が痛いなどとは言えず、もくもくと歩き回っていた。いろんな、村を見て、彼は、「今度は、あの山のてっぺんの村まで行くよ。」とこともなげに言った。
私は、いいかげん頭が痛くて、内心、(げっ、あの山登るの〜?)って思ってしまったが、彼が言うには、「あの山は、カヘル山と言って、標高3千メートルで、あそこの村には、 特別のムスリムが住んでいるんだよ。それに、あそこからの眺めは最高なんだ。」 だそうだ。
しかし、頭痛が最高潮に達していた、私は、はっきり言って、登りたくないよ〜と思ってしまったが、彼が余りにも力説するので、こっそりと薬を飲んで、頑張ることにした。
途中の道は、それこそ、一歩まちがえたら、谷底に落ちてしまいそうに狭く、車がやっと一台通れるか否かというぐらいの道である。おまけに、上から落ちてきた、大きな岩が転がっていて、通り抜けれないので、その岩を、車から降りて、いちいち、脇に避けながら上に昇っていった。
途中、ロバに乗ったおじいさんが私たちの車を追い越していってしまった。
そんな、ガタガタ道を登ること、約、1時間。
やっと、村の手前に到着した。

その頃には、私の頭痛も薬が効いてきて、だいぶ治まってきていた。その場所から、更に砂利道を歩いて、登らなくてはいけなかった。村には、小さなモスクと家々が何軒か密集して並んでいた。
そして、意外なことに、車は私たちのが一台しか見あたらないのに、ヨーロッパ人をちらほら見かけた。

「あれ?私たちだけかと思ったら、他にもヨーロッパ人がいるよ〜。」

「うん、あれは、トレッキングでやってきた人達だよ。ここまで、車で来るのには、普通、ガイドは嫌がるんだよ。道が他に比べて、断然悪いからね。だから、どうしてもここまで来たいと思う人は、ああやって、トレッキングでやってくるんだ。でも、僕は、どうしても、君に、ここからの眺めを見て欲しかったから、無理してでも来たのさ。これは、君の為のスペシャル・メニューだよ。」

確かに、フランス語を喋っている彼らは、トレッキング用の服装をしていた。
が〜ん、そこまでして、私にここからの眺めを見て欲しかったのか・・。そんなこと知らずに、ああ、登りたくないよ〜って思ってしまったことをとても後悔した。ごめんなさい。

そして、村一番の高い場所に登って、山のてっぺんからの景色を見ることになった。やっとのことで山のてっぺんに登ると、そこから眺めた景色は、彼の言うとおり最高だった。頭痛なんていっぺんで吹き飛んでしまうぐらい最高だった。
岩がちの山から、何十段いや、何百段にも渡る、段々畑が広がり、その途中には、今まで見てきた、村々が、寄り添うようにして集落を作っている。その、段々畑が、ず〜〜っと下の方まで続いているのは、日本でも見たことがない。

息を飲むような、美しい光景がまるで、パノラマ写真をみているように目の前に広がっていることの不思議。アラブというと、真っ先に砂漠と思い浮かべるが、イエメンは複雑な地形に富んでおり、 山あり、谷あり、段々畑ありの緑の多い地形なのだ。
実際、この段々畑は、イエメンの名物でもあるらしい。岩がちの山を切り開いて、段々 畑を耕してきた、昔の人は偉いなぁと素直に感動した。

美しい光景をしっかりと目に焼き付けての帰り道、ガイドは、どうして、私にこの場所を見て欲しかったのかを説明し始めた。「君と最初にどこを見て回りたいかをディスカッションしたとき、僕は、気づいたんだ。君は、本気でいろいろ見て回りたいんだなって。君は、アラブのことをよく判っているし、アラビア語も自分で勉強しているだろ。僕は、今まで、殆ど、ヨーロッパ人を相手にガイドしてきたけど、君みたいな意気込みでイエメンにやってくる観光客ってとても少ないんだ。だから、こっちもおざなりのガイドになっちゃうけど、君みたいに好奇心旺盛だと、こっちもガイド冥利に尽きるって言うか、だから、ここに連れて来ようって思いついたんだよ。」

ふ〜む、ガイド冥利に尽きるとまで言われて、私もかなり嬉しかった。
おかげで、イエメンでも最高の景色を見てこれたのだ。
ガイドにも感謝!!


20、石油のでる国、でない国

イエメンは、石油がでるらしいが、U.A.Eやサウジアラビアの比ではないと思うので、いちおう、石油がでない国に分類されると思う。
今回は、石油が豊富にでる国である、U.A.Eと、石油があまり出ないイエメンの 両方に滞在できたことは、私にとって、両者の比較ができ、興味深いものになった。

U.A.Eのような、金持ちの大都会の国では、それぞれの出稼ぎ者がコミュニティを 作っている。地元の人間もまた、彼らでコミュニティを作っている。そこには、絶対に入り込めない目にみえない線が引かれ、地元民と出稼ぎ者は完全に区別されている。

U.A.Eでは、警察が厳しく、常に国民に目を見張らせているということだ。もし、彼らが何か悪いことをすれば、すでにできているファイルに登録され、ブラック・リストにあげられるのだそうだ。個人個人のファイルが、管理されており、例えば、メディカル・カードを作る際にも そのファイルが影響してくる。もし、なにか悪いことをすでにしていれば、メディカル・カードは作れず、病院にかかるのには、ただってことにはならないらしい。(メディカルカードさえ持っていれば、国立の病院は、ただなのだ)このメディカル・カードは、U.A.Eで生活していくのに、もっとも、大切なものなんだそうだ。

一度、悪いことをすれば、メディカル・カードも作れず、実質上、U.A.Eに住むのには、とても大変な思いをするので、みんな、悪いことは堂々とできず、コソコソしている印象を受けた。悪いことって何かと思えば、例えば、一人で歩いている女性に声をかけて、どっかに行こうと誘っているのを宗教警察に見られたら、捕まるらしい。公衆の面前でおおっぴらに女性に声をかけてはいけないとされているのである。だから、私に話しかけるのも実は、結構、ドキドキもんだったんだと言われた。

前回は、判らなかったが、今回、もう一度、ドバイに来てみて、判ったことがある。ドバイは、いくら自由に見える国でも、やはり、イスラムの国だということだ。表面的には、サウジアラビアよりもずっと自由に見える彼らでも、イスラムの戒律に逆らって生きていくのはかなり難しく、戒律にしばられた生活を 送っているんだなっていうことが判った。
しかし、金も暇も、持て余している、ドバイっ子は、やることがないので、暇つぶしにディスコへ出かけたりする毎日を送っている。それに、ドバイっ子の彼らは、結婚しているのに、他に彼女が3人ぐらいはいるのだそうだ。
随分と、お忙しいことだろう。
彼らの目には、生き生きとしたものが窺えず、何となく、刹那的、退廃的な印象を受けた。

そんな印象を受けながら、イエメンに行ってみると、そこは、石油が豊富にでる国 とは、全然違った世界が存在していた。イエメンに住む人は、殆どが純粋なイエメン人なので、雰囲気も違うのは当然だと思う。周りを石油が豊富にでる国に取り囲まれているが、イエメン人は、自分たちは周りのアラブ諸国とは違って、とても歴史のある国なんだという、プライドを胸にしっかりと刻んで生きているのである。
彼らに言わせると、
「ドバイだって?ビル以外になんにも無いところじゃないか。イエメンは、とても歴史のある国なんだ。サナアの旧市街だってユネスコの世界遺産に登録されているしね。その他にも、イエメンは、いろいろ見るべきものが沢山詰まっている国なんだよ。」と、鼻息も荒く、対抗心を覗かせる。
たかだか、何十年かの歴史しかない他のアラブとは違うんだぞっていう意気込みには 凄いものがある。
実際に、いろんな村の家の壁やら、岩には、古代アラビア文字が、どうしてこんな ところにあるの?・・・って思うような所に、見られるのである。そんな、博物館に置いてもよさそうな、古代アラビア文字が他の普通の石や岩に混じって当たり前のように存在しているのは、見ている者にしてみれば、一気に、古代に戻ってしまったような錯覚にさせられる。
そんな、国なのだ、イエメンは。

国民一人当たりのGNPも低いし、後発発展途上国に登録されている国ではあるが、おじいさんはおじいさんらしく、子供は子供らしい素朴な表情をしている国だった。(しかし、おじいさんは、一般に本来の年よりもかなり老けて見えるのに対して、子供の方は、日本の子供に比べたら、5歳ぐらいは若くというか小さく見えた)
彼らは、私が日本人と判ると、「ヤーバーン、タマーム(日本は素晴らしい)!」と口々に叫び、イエメンも日本みたいになれればといいのになぁなどと言うのだが、彼の生き生きした表情を見ていると、果たして、日本のような近代化の道を歩むことが 彼らにとって幸せなことなのかと考えてしまった。有る程度の発展は必要だろうが、イエメンは、決して、悲惨な貧しさを感じさせるような 国ではない。イエメン人は彼らは彼らなりのプライドをもって生きているので、むしろ、ブータンのように日本よりも国民の幸福度は高いかもしれない。(実際、ブータンに通じる部分がある。男同士で手をつなぎあう所や、同じ山岳民族など似ている点があるのだ)

イエメンほど、面白い国って、あまりないんじゃないかな?と思う。
少なくても、アラブの中では、ダントツに面白い国かもしれない。そして、やっと、私が求めていた、古き良きアラブをイエメンに見ることができ、イエメンは、とても私のお気に入りの国となったのである。



21、パレスチナ問題についてインタビュー

今回、アラブにまた行くに当たって、私は自分に課した、課題が3つほどあった。一つは、ドバイで前にお世話になった人々にお礼をしてくること、もう一つは、ラマダーンを体験してみること、そして、最後は、パレスチナ問題について聞いてみることができるなら、どのように考えているのか是非、聞いてみたいと 心に誓っていた。最初の二つについては、私の問題なので、私が動こうと思えば、達成できる目的である。
しかし、パレスチナ問題は、とてもセンシティブな問題で、日本人の間で討論している 分にはいいのだが、アラブ人に実際、どう思うかなどと、尋ねてみても、一介の旅行者にそう易々と本音を語ってくれるはずもないだろう。そこで、私は、ドバイとイエメンでそれぞれ仲良くなれた人にだけ、聞いてみることにした。湾岸諸国とイエメンでは、考え方に違いがあるかもしれないと思ったからだ。

ドバイでは、ドバイっ子の彼らに、インタビューしてみた。彼らは最初、私がこの話を持ち出した時、驚いた表情になった。日本人から、まさかこの話題を持ち出されるとは・・と言った感じで。
彼らは、「この問題は、パレスチナとイスラエルが同じ場所にいる限り、永遠に終わりがやってこないような問題だし、アメリカとかが関与している限り、埒は開かないだろう」と言う。何だか、人事のようなしゃべり方だった。
そりゃあ、いきなりパレスチナ問題を持ち出しても、この問題は奥が相当深いので、一言ではまとめられないだろう。
「じゃあさ、ガザとかに住んでいるパレスチナ人に対しては、同じアラブ人としてどう思っているの?」と尋ねてみた。
すると、彼らは、う〜んと考えてから、
「アラファトは、湾岸諸国などからの寄付金で豪遊しているんだ。彼は、その金で自分専用の別荘なんかも建てているんだよ。だから、ガザとかに住む人々には、金なんかはいりゃしない。そんな風だから、僕たちがなんとかしてあげたくても、どうにもならないだろ?」と 言われてしまった。
どうも彼らからは、当事者じゃないから、僕たちにはなんとも言えないんだよという 印象を受けた。同じアラブ人と言われても、実際に、目の当たりにしているわけではないからこれは仕方がないことなのかもしれない。

次に、イエメンで私のガイドを3日間やってくれた彼にも同じ質問をしてみた。どうも、イエメンは、イスラエルのレバノン侵攻の際に、アラブ諸国で最も敏速に、最も多くの兵隊さんが助っ人に駆けつけて、最も多くの殉教者をだしたことがあるという国だということは、本を読んで知っていた。また、イエメン人は武士の情けも持ち合わせているらしい。>そこで、そんなイエメン人が、どう思っているのかとても興味があったのだ。

私のガイドも、はじめこの問題を切り出したとき、ドバイっ子と同じような反応をした。
「イスラエルは、3つの宗教の聖地だから問題が起こるんだよね。初めはユダヤ教、そして、キリスト教、最後にイスラームがね。みんな、自分の 聖地が欲しいんだ。でも、もともと住んでいたパレスチナ人を追い出すのはどうかな?もともとは、イギリスが口約束を両方の国にしたのが原因だけど、当分の間は、誰にも解決の糸口は掴めないだろうね。パレスチナ人には同情するし、彼らが早く自分たち独自の国を持てればいいと僕は、思っているよ。」と、静かに語ってくれた。

「イエメンには、今でも、少数のユダヤ人が住んでいるんでしょ?」と聞くと
「うん、多くは1948年のイスラエル建国でイエメンを殆ど出ていったけど、北の方に今でも、少数のユダヤ人が住んでいるんだ。彼らは、昔、ジャンビーアの装飾を施す仕事なんかをしていて、彼らはとてもいい人達だよ。ムスリムに改宗しているユダヤ人もいるんだ。」との返事だった。

「インティファーダについては、どう思う?インティファーダってテロだと思う?」と尋ねてみると、
「インティファーダは、テロじゃないよ。あれは、無実の罪で捕らえられた人の魂の叫びさ。イスラエルは女も子供も罪のあるなし関係なく、投獄したり、家を放火したり、レイプしたり・・そういうことへのせめてもの彼らの抵抗さ。」それ以上の話については、彼はやんわりと話をそらし、結局、聞くことはできなかった。
また、その話にもっていけば、きっと彼は嫌がるだろうし、私としては聞きたいのはやまやまだったのだが、彼らの気持ちを踏みにじってまでは聞きたくない。

結局、私が聞いてみたいことの半分も聞けなかったが、質問してみた範囲では、ドバイっ子もイエメン人も、どちらも同じ様な反応だったと思う。彼らにとっては、僕たちが意見したところで、結局、何も変わらないんだというような印象を受けた。
しかし、私がもっと彼らと信頼関係を築ければ、より、彼らの本音をうかがえることが できたかもしれない。

また、今回聞いてみたのは、普通のドバイっ子とガイドのイエメン人だけである。彼らにしか聞いてみなかったので、この意見がドバイとイエメンの代表者の声とは 言えないと思う。アラブ人の中でも、いろんな考え方をする人がいるだろう。逆に、私が日本の政治などについて聞かれて、自分の意見を深く考えずに喋ってしまうと、 彼らは、日本人とはそうそうお話する機会は持てないので、私一人の意見がそのまま、 日本を代表する意見として、彼らにインプットされるだろう。そう、軽々しくは、自分の意見を言ってはいけないのかもしれないと考えさせられた。

ぢ・えんど


さて、イエメン日記面白いぞぉとか、オイラも行ったことあるもんねーとか、これから行くんだけどさぁーってな方は、いますぐ、メール送ってくださーい。
もれなく、アラビア純子からのお返事がついてきまーす。


もう、帰りたいよぉ〜ってな方は、こっち