8、ラマダーン(断食月)は楽しい?

12月30日から、ラマダーンに突入した。
宿のレセプションにも「ラマダーンムバラク!(ラマダーン、おめ でとう!)」というポスターが張ってある。
私がどうしても、この時期に来たかったのは、ラマダーンを体験してみたかったからというのが大きな理由だった。
ラマダーンは、みなさんもご存じの通り、その月の一ヶ月は、日の出 から、 日没まで食べ物はもちろんのこと、何も飲んではいけないし、タバコも吸って はイケナイし、唾さえものみこんではいけないとされている。
これは、ムスリムの5つの義務のうちの一つであり、この目的は、神への感謝を新たにし、神を思うことであるらしい。食事等を全然食べないという目的とは違ったものである。
また、断食月には、持てる者が持たざる者へ、分け与えることがいい こととされ、ザカート(喜捨)という、一種の大番振る舞いをする時期でもある。だから、持たざる者は大いに権利を主張できる時期でもある。

ラマダーンは、昼間は、食べれない為、ぼ〜っとしているのだが、日没後は、とたんに活気が戻ってくる。ちょうど、昼間と夜が逆転した形になるのだ。
日が沈む頃には、みんな、家に戻って、いまかいまかと待ちながら、 席につき、 日が沈んだとたんに、嬉々として、食事を始めるらしい。普段よりも、ずっと、食物を与えてくださって神様どうもありがとう という気持ちに素直になれるということだ。

夜は、普段よりも長くスークが開いている。この幸せを少しでも長く味わいたいのか、みな外にでて、スークで買い物をする。そして、スークは、いつもよりもずっと活気にあふれるのである。そんなわけで、ラマダーン月は、実は、人々にとっては、辛いものというよりも、ラマダの時にしか味わえない喜びや楽しみがあるので、結構好きって人の方が多いのだ。

このラマダーンという儀式 を何年も続けてきた人々に とっては、仕事 よりもなによりもこのこと を重要視するため、働き者の日本人が中東 に 勤務していたりすると、 何かと仕事がはかどらず、いらいらされられる ことがあるらしいが、 アラブ人と日本人の価値観の違いに問題があるのだと思う。

日本人のツアー客を見かけたのだが、彼らは、人前でも平気でタバコ を吸っていた。それを見た私は恥ずかしいような複雑な気分になってしまった。 ガイドが初め、ラマダーンに当たって、「もし、イエメン人に敬意を払ってくれるなら、みんなの見ている前 ではなるべく、食べ物を食べたり、飲んだりということは、控えて欲しい。」と言われた。私は充分そのことについては、把握しているし、ラマダーンを体験し てみたいから今回、イエメンに来たのだと打ち明けた。すると、彼は嬉しそうに笑った。
そんなやりとりをしていた矢先、日本人のおじさん達がタバコをスパ スパ やっているのを目撃してしまったのだ。
彼らも添乗員さんから、なにがしかの注意を受けていたはずである。それなのに、我が物顔でスパスパやっているのには正直言って閉口した。
その国には、その国なりの掟がある。
ラマダーンは外国人までも断食する必要なんてないのだが、せめて、堂々と人前でスパスパやるようなことは避けて欲しかった。
ツアー会社もラマダーンのことぐらいは知っているはずである。申し込みをした段階で知らされているはずだと思う。
そんなの勝手に断食したけりゃやってたらいいさ、俺達はタバコどう しても吸いたいから吸ってんだもんねーって態度がありありだったのには参った。
今回の断食に限ったことではないが、もし、外国に旅行でおじゃまさ せて貰う身分だったら、少しはその土地のことをお勉強してから不作法のないよう にしたいもん である。全然知らなかったから・・・という言い訳では済まされない時だって あるだろう。自分はツーリストだから何をやっても許されるという考えは、世界の どこへ 行っても受け入れられないと思う。

私は正味2日間、ラマダーンを体験したが、最終日は、朝から、夜飛行機に乗って、機内食が出るまで食事らしい食事は一切しなかった。(水を一度、飲んでしまったことと、空港で貰ったクッキーを口にしてしまったことは告白しますが)
機内食はあまりおいしくないと思っていたが、とても美味しくいただくことができたのはうまでもない。
ああ、こういうことだったんだって、時間は短かかったが、実感でき たのだった。



9、ヤヒヤのお家訪問

ガイドと一緒に、サナア近郊の小さな村を訪れた時のことである。
偶然にも、ガイドの幼なじみのヤヒヤとすれ違った。
彼らは、久しぶりの再会に、両頬をくっつけあって、なが〜い挨拶をかわしている。
彼らは、とてもなが〜い挨拶をするのが常だ。
例えば、
A「こんちわ」B「こんちわ」
A「最近調子は、どう?」B「おかげで、いいっすよ。そちらは?」
A「おかげで、こちらもいいっすよ。」
A「仕事の方は、どう?」B「おかげで、仕事の方もいいっすよ。」
A「家族のみんなは、どう?調子は。」B「家族もみんなおかげで、元気さ。」
B「神のおかげだなぁ、全く。」
A「そう、神のおかげだよな。」B「君に、会えて嬉しいよ。」
A「こちらこそ、会えて良かった。」
B「いやいや、こちらこそ嬉しいよ。・・・」言った、感じで、えんえんと続く。
それに、知らない人とすれ違っても、挨拶をかわす。
何度も、私は、ガイドに「今の人は友達?」と聞いても、「え?知らない人だよ」って答えが返ってくる。

ヤヒヤは、その村に現在、母親と奥さんとかわいい子供2人と一緒に住んでいた。
ヤヒヤが、ガイドに、
「久しぶりに会ったんだから、是非、家に飯でも喰いに来いよ。」と言ったのだが、ガイドは、私と一緒だということに気を使って、
「今、この人のガイドの最中だから、行けないよ。ごめんな。」と言った。
私は、是非、イエメン人の生の生活を見てみたかったし、家にも訪問してみたかった。
だから、
「私が一緒でも、迷惑じゃなかったら、是非、行ってみたい。」と提案してみた。
すると、ガイドは嬉しそうに、
「オーケー。ホントは、君はこれから見に行く所も 沢山あるし、時間を気にしていると思ったんだ。でも、君が行きたいなら、話は早い。これから、ヤヒヤの家に行って、昼飯をごちそうになろう。」ということで、話は決まった。
いつのまにか、道で出会った、ヤヒヤのお友達2人も一緒に同行することが決まった。

ヤヒヤのお家は、ホントに普通のイエメン人の家らしかった。作りは、石と日干し煉瓦を積み重ねてできていて、面積自体は狭いのだが、上に高い長方形の家である。大体の家が、5〜7階ぐらいまであるのだ。それも、エレベーターなんてものはないので、歩いて昇る。階段の一段、一段が高いので、上に着くころには、ぜーぜーしてしまう。(大体、イエメンのサナア近辺は、標高2千〜3千メートルなので、だまっていても、高度障害を起こすおそれがあるのだ)でも、ご老人でも、ひょいひょいとかる〜く昇っていくのには、驚いた。きっと、彼らは、慣れているんだろう。
1階は、大体が家畜の部屋になっており、2階は倉庫になっている。3階〜5階ぐらいまでは、寝室や、それぞれの部屋になっていて、キッチンもかなり上の階にあるのが普通である。
最上階は、「マフラージ」と呼ばれる、一種の応接間になっている。
そして、必ず、眺めのいい、テラスがある。
マフラージは、一番、贅沢な造りになっていて、窓には、「カマリア」 という白い縁取りのある綺麗なステンドグラスがはめ込まれているのが特徴である。夕陽が差し込む時間帯の、カマリア窓はとても美しい。部屋の中には、中央にじゅうたんがひかれており、その周りには、壁に沿って、肘掛け付きの座椅子のような、クッションが置いてある。このクッションに立て膝を立てて、座るのがお行儀のいい座り方らしい。この部屋では、結婚式も行われることもあるし、いろんなパーティーを催すらしい。私たちは、マフラージに通され、部屋の前で靴を脱いで、 クッションに座りながら、昼食の出てくるのを待っていた。

キッチンには、パンを焼く為のかまどのような造りのもの(タンヌール)が2つあり、そのかまどは丸く、その壁面にパンを張り付けて焼くしくみになっている。パンは、インドのナンみたいなもので、まん丸い形をしていて、中が空洞になっているので、食べるときはこれをちぎって、中にものを挟めるようになっている。
小さいガスこんろみたいなのの上に鍋が一つのっていて、ヤヒヤの奥さんがその鍋をかき回している最中だった。奥さんとは、少し言葉をかわしただけで、マフラージの方へ戻った。ガイドも一緒だったことだし、あまり、奥さんにあれこれ質問するのは、きっと、ヤヒヤが嫌がるだろうと思ったからだ。

娘のルゲイヤ(2歳)にも、こんにちわと挨拶をすると、彼女は、私を一目見て何か怖いものでも見たかのような表情になった。おそらく、私のような、東洋フェイスは、生まれて初めて見たのだろう。彼女は、しばらくの間、私が話しかけても、硬直したままの姿勢を崩そうとはしなかった。
しかし、私がカメラを取り出すと、「スーラ、スーラ(写真だぁ)!」と叫び、 だんだんと打ち解けてきた。
そして、ついには、彼女は私にだっこさせてくれる権利までも与えてくれた。

さて、いよいよ、お昼ご飯の登場である。
いきなり、人数が増えたので、量は少なかったが、イエメンの家庭の味を味わうことができてとても幸せだった。
靴を脱ぐのも、床に座ってくつろぐのも全く、日本と同じだが、一つ違う点は、テーブルがないことである。
彼らはテーブルを使わず、床に直接ビニールシートみたいのを敷いて、その上にごちそうを並べ、みんなでごちそうを取り囲んだ形でわいわい言いながら食べる。
食事も、人数分に皿に盛ってでてくるのではなく、どーんと大きなお皿に盛ってある。共同の皿や鍋から、みんなで、手で食べたり、スプーンを使って食べるのである。

ハルバというスープみたいなものに、パンを浸して、食べる。
この中には、トマト、卵、少量のご飯粒、野菜などが入っていて、今まで食べたことのないような不思議な味がした。
後は、チキンライスのような炒めご飯もでてきた(ただし、チキンは入っていない)。それも大盛りにした一皿から、各自、スプーンですくって食べる。

イエメンでは、一般に食事は質素なようであるが、みんなで寄り合って、わいわい言いながら、食べたご飯は、とても豪華な気分にさせてくれた。
町中のレストランに入って、地元のものを食べてみるのも面白いが、こうやって、実際、イエメン家庭料理をごちそうになる方が何倍も面白かった。

家の造りに触れたついでに、ロックパレスという、昔、イエメンを支配していた、イマーム・ヤヒヤの夏の別荘だった豪邸についても述べたいと思う。
ここも基本的には、ヤヒヤのお家と同じような造りであるが、豪華なものであった。
面白いと思ったのは、玄関の扉である。
家が上に高い造りなので、誰かが訪問してきたり、家の人が帰ってきたりしたときに、いちいち、階下に降りていくのは面倒である。そこで、上にいても、玄関の扉が開けれるように、ひもが玄関から続いて垂れていて、そのひもを引っ張ると、玄関の扉が開くような仕組みになっていた。また、玄関の扉はとても頑丈な木で出来ており、なんと、いくつもの鍵がついていた。
イマームは絶えず、侵略者から身を守るために、いろいろな仕掛けを家に施しているのであった。鍵は、4重にも5重にもなっていて、一つはどうやって開けるのかちょっとやそっとでは判らない造りになっていた。
また、イマーム専用の秘密の逃げ道もあり、家の壁には、敵が向こうからやってくるのがよく見えるように小さな三角の穴が開いていた。その穴から、銃を差し込んで打てば、相手が発砲してもこちらには弾が当たらないような仕組みになっている。
1918年から約40年間イエメンを徹底的に鎖国主義に持ち込んだ、イマームは、絶えず、反対派の敵に襲われるという恐怖の中で暮らしていたのだろうということが窺えた場所だった。



10、裸の付き合い

女性の特権をフルに生かして、ハンマーム(公衆浴場、ターキッシュ・バス) に行ってみた。
これは、オスマン・トルコに支配されていた時に、イエメンにもたらされたものらしい。入り口は、普通の家みたいになっていて、ここがハンマームですというような看板も見あたらない。
しかし、地元では、そんな看板はいらないらしく、入り口にたっているおばさんにお金を払って中へ入る。
しばらく、細長い通路を通り抜けると、脱衣所がある。
お風呂あがりの女性や子供が何人かくつろいでいた所へ、いきなりニューフェイスが入ってきて、最初はみんなにビックリした顔をされたが、みんな暖かく迎えてくれた。
「マサール・ヘイル!アナー、ヤバーニヤ(こんばんは!私は日本人でーす)」と言うと、彼女らは、ヤバーニヤ、ヤバーニヤ(日本人だぁ)と口々に囁き合い、ここで、着替えてから、シャンプーと石鹸とタオルを持って、あっちに行くのよってみんなで口々に教えてくれた。

奥の部屋に行くと、蒸気がむんむんとしていて、まさしく蒸し風呂だった。小さな部屋がいくつもあり、その各部屋では、イエメン女性がそれぞれ、身体を洗ったり、子供が走り回っていた。
身体を洗う部屋に連れて行かれ、ここで、待っててという指示を受けた。床は少々汚いので、みな裸足にはならず、サンダルをはいたままだ。私も幸いドバイで購入したサンダルを履いていたので助かった。

大抵のアラブ女性は、たとえ、お風呂でも素っ裸にはならない。
上をゴムで縛ったスモックみたいな布を身体に巻いている。
私は、そういった布は持ってこなかったので、仕方なく素っ裸で通したが、若いイエメン女性も素っ裸になって自分の身体を洗っているのを見かけた。
若いイエメン女性は、日本人の体型に興味があるらしく、用もないのに、私を見学しに別の部屋からひょいと顔を覗かせて去っていく。私もいつもベールをかぶっている彼女らに興味津々で、まるで男性のようにじろじろみてしまった(少し、反省)。しかし、彼女らは、隠しておくのがもったいないほど、スタイルが良かったということは報告しておく。

普通は、自分の身体は自分で洗っていたようだが、私はせっかくだからと奮発して、シャンプーと身体の垢すりコースを選んだ。(約400円)割と若い女の人がやってきて、私の髪を優しくシャンプーし始めた。お湯はどこから出てくるのか、小さい部屋の角に三角のお湯受けがあり、その中に浮かんでいる、大きめのコップでお湯をすくって、身体にお湯をかけてくれる。

「あなたは、子供いる?」と彼女が尋ねてきた。
「ううん、いないよ。」
「私は、22歳なんだけど、子供は、男の子が二人。」
「へぇー。大変だね。」なんて会話をしながら、彼女は、次に垢すり用の手袋を手にはめて、私の身体をゴシゴシと擦りはじめた。しかし、彼女らは、家にお風呂がないため、毎日お風呂に入れないせいか、擦るとぼろぼろ垢が出るのに、私はいくら擦っても垢がでてこない。いいかげん、皮膚が痛くなってきたので、垢スリはもう止めてもらった。
すっかり、満足して、脱衣所に戻ると、お風呂あがりのイエメン女性が着替えをしている真っ最中だった。
「どうだった?」と感想を聞かれたので、
「ハンマーム、タマーム!(ハンマームはいいね!)」と答えると、
「アイワ、タマーム、タマーム!(うん、いいよねぇ!)」と皆口を揃えて答える。
彼女らが、お風呂あがりに何を着て帰るかと思って観察していたら、長いネグリジェみたいなものを着て、さらにその上にアバヤ(黒マントやらカラフルな民族衣装)を羽織って、頭にも布をぐるぐる巻きにして帰っていった。
このハンマームは男の日と女の日が交互になっているそうだ。
たまたま、私が行った日は、女の日だったのである。
運が良かった。この日でなければ、ハンマームに行く時間はとれなかっただろう。神様は私を見放してはいらっしゃらないようだ。
しかし、履いてきたサンダルのままお風呂に入ったので、濡れたサンダルをそのまま履いて、頭には持ってきたタオルをぐるぐる巻きにして帰るはめになった。帰り道は、道行くおっさんに変な目で見られたが、まぁ気にしない、気にしない。

本当の意味での生の(裸の)イエメン女性を実際にこの目で拝見できると言うことは、実は、女性の旅行者ならではなのである。
男性では、まず、一生お目にかかれないだろう。
こんなに、女に生まれて良かったぁと実感したことは、数少ないと思う。実は、アラブ世界は、女性の旅行者にとって、男性よりもこんな風な特権があるのである。
男性旅行者では、アラブの男の世界しか覗けないが、女性は、アラブの男の世界も女の世界もどっちも覗けるのだ。ハンマームのみならず、レストランでのレディース・ルーム(女性専用のしきりがある、個室のような部屋)なども、男性は出入り禁止だからだ。
と言うことは、女性旅行者は、男性旅行者の倍、アラブ世界を覗けるという事になるだろう。
これこそ、女の特権だなぁ。うふふ〜。

ところで、ハンマームでは、どうやって火をおこしているのだろうか?裏の大きなかまども見せてもらった。三人の子供が一生懸命に、かまどに粉みたいのを放り込んでいた。この粉みたいなものは、牛などの家畜の糞なのだそうだ。村に行くと、日の当たるところに、直径30cmぐらいの土色の丸いものがいくつも並べられてあった。これは、家畜の糞を丸めて、平たくし、乾燥させて、燃料に使うのだそうだ。薪は貴重な為、このような、合理的な家畜の糞利用法があることに感心した。



11、こんなところで漢字?

サナアから西へ向かう道路沿いに、何やら中国風の赤やら緑色の装飾の東屋風の建物が目に飛び込んできた。
あれは、なんだと尋ねると、中国政府によるプロジェクトで、ここの道路を作った際に亡くなった、中国人のお墓だと言う。えー?イエメンで中国人のお墓ぁ??車を止めてもらって、早速、見に行ってみた。
ホントに、お墓が30個くらい建っていて、○○之墓と中国語で書いてあり、そのわきにはアラビア語の文字も見える。彼らは、1961年に中国政府から依頼されて、はるばるイエメンまで この道路の建設の為にやってきて、工事の際に事故などで命を落とした人々だった。どうも、中国でもお偉い方々が、政府の指示により、やってきたので、このような立派なお墓を建てているとのことだった。この道路は岩がちの山を切り開いて造られたものであり、とても広く、立派な道路で、この工事は並大抵のことではなかったであろう。こんなに遠いイエメンで、まさか漢字にお目にかかるとは思っても見なかった。その場所は、遠くにサナアが一望でき、とても見晴らしのいいスポットでもあった。そんな場所にお墓を建ててもらって、彼らも満足しているかもしれない。その当時苦労した中国人の方々のご冥福を祈らずにはいられなかった。



12、カートを噛んでみれば

カートという木をご存じだろうか?
これは、お茶っ葉みたいな葉が付いている木で、軽い神経興奮作用があるらしい。何でも、何時間も噛んでいると、ハイになれるらしい。このカートと言う木の葉っぱを生のまま噛んで、エキスを飲み込む。そして、その噛みかすを歯とほっぺの間に溜め込んで、何時間も噛んでいるのだ。だから、何時間も噛んでいると、噛みかすが溜まって、ほっぺはこぶみたいに大きく膨らむがそのままにして、彼らはカートを噛み続けるのである。まるで、こぶとりじいさんになってしまったみたいに見えるのが笑える。
道行く人や、スークのおじさん、子供までも が昼を過ぎると、もぐもぐと カートを噛んでいる。(女性もやる人がいるらしいがおおっぴらにはやらない)これはテレビで以前、見たことがあったが、本当に相当の割合で、もぐもぐやっているのだ。(この子供もこぶとりじいさん予備群だ。手に持っているのがカート)

みんな、そんなにやっているなら、私も挑戦しないと帰れないと思い、ガイドにカートに是非、挑戦してみたいとお願いしてみた。しかし、カートは一人で噛むものではなく、マフラージなどに集まって、みんなで、ワイワイがやがや言いながらやるものなんだそうだ。カートの目的は、第一に社交なのだそうだ。気のおけない仲間同士が集まって、その場の雰囲気を盛り上げる為に噛むらしい。これは、ただ単にハイになりたいから噛むのではない。何でも、大統領までもがカートの日というのを催しているらしく、その場で重大な商談を成立させることもあるらしい。この社交の輪からはずれるということはイエメンにおいては、仲間はずれになってしまう、重大なものなのだ。
多分、日本でいえば、お酒と同じ様なものだろう。
しかし、ここはイエメンである。一応お酒は厳禁のイスラム国家だ。
もちろん、お酒を社交に持ち込むことはできないので、カートで気分を昂揚させるらしい。
彼らに言わせると、カートは、アディクションはないらしいが、お隣のサウジアラビアでは、禁止されている。
なぜなら、もし、サウジアラビアで、このようなものが許されれば、国民が一致団結して、革命でも起こしかねないからということだ。
しかし、イスラムではお酒のみならず、「酔わせるもの」を禁止しているはずだ。彼らにとっては、このカートは酔わせるものには分類されないのか?ちょっと、疑問だった。

そんなに、イエメンらしさを味わえるのなら、一度は試してみたいと思うのは 人情である。しかし、カート・パーティーを行うのは主に男同士である。私は、外国人とはいえ、女性なので、どこかで行われるパーティーに参加することもできない。
そこで、ガイドは自分のオフィスにあるマフラージにカートを持ち込んでささやかな、カート・パーティーを催してくれた。
カートは、いろいろなクオリティーがあって、高いのから安いのまでいろいろである。一日中私のガイドをしていいかげん、疲れているでしょうに、彼は、グッド・クオリティーのものを買ってきてくれて、夜の9時頃から、カート・パーティーを始めることになった。
緑色の葉っぱの先っちょの若い部分だけを摘んで、噛んでいくのであるが、これが、なかなか苦いのである。はじめ、口に入れたときは、思わず吐き出しそうになった。私は、約四時間も噛み続けたが、ハイにもなんにもならなかった。カートをやるに当たって、その場の雰囲気が、ハイになるかどうかを左右するものらしく、私は、やっぱり、ひとり旅をしているという気負いがハイになることを拒んだのか、全く、興奮するとか、目が冴えてくるとか、やたらとおしゃべりになるといった症状は見られなかったのが残念である。

しかし、カートをやるとお腹がすかないらしい。
実際、その日は夜ご飯は食べずに、カート・パーティーに突入したのだが、不思議とお腹はすかず、夜中に宿に戻ってから、パンを少し口にしただけで、翌日はラマダーンに挑戦できたのである。ということは、もしかして、お腹が全然すかないのは、このカートの効き目だったのだろうか。
ラマダーンに挑戦してみたかったら、前日にカートを思いっきり噛むとお腹がすかなくて、じたばたしないですむのかもしれない。

しかし、カートは決して安いものではない。
ガイドは、カートは好きじゃないと言う。
何故かと問うと、
「カートは、社交の為に必要だから、僕もたまには噛むけど、これは、イエメンの経済を圧迫しかねないんだ。噛むには、結構お金もかかるし、第一、人々の生活をレージーなものにしてしまうんだ。これは、イエメンでは大きな問題になっているんだよ。それに、昔はコーヒー農園だった所も、いまじゃ、殆ど、カート畑に変わってしまった。これは、僕にとっては、とても残念なことなんだ。」と言っていた。

でも、見た所、お金がかかってもカートはやりたいという人の方が多いみたいでこれから、どう変化していくのか、見守っていたいと思った。



13、一人当たりの銃所有数が世界一の国?

ある小さな小さな、村に行ったとき、約10人もの若者が先頭に立って、村を案内してくれるサービスぶりだった。
そこは、バイト・バウスと言う名の村で、サナアからわずか15キロのところにある。(しかし、道が舗装していないし、山道を登っていくので、行くのに一時間はかかってしまう)今は、殆どが廃虚と化しており、住んでいる住民は、3世帯のみだそうだ。彼らは、その村の真下に住んでいる若者で、その村を訪れた人を案内してあげているそうだ。(仕事してないのか?よく判らなかった)

彼らの中の一人が猟銃のような銃を肩からさげていた。
おお〜〜、銃だ!!そんな銃になど、触ったこともないので、触らせてくれとお願いしてみた。
彼らは快く承諾してくれ、銃を手にとって持たせてもらった。
銃は結構重くて、驚いたが、そんな若者でも平気で銃を持ち歩いていることの方がもっと驚いた。話には聞いていたが、ホントに、持ち歩いているとは!
何でも、一人当たりの銃の所有者数は、世界一ということらしい。
「何で、銃なんて持っているの?」と聞くと、
1人の若者が、「マジュヌーン!(気が狂ってるのさ!)」とジョークで叫んだ。
ホントに、マジュヌーンかもしれない。
でも、彼らは、廃虚となった家々を丁寧に説明してまわってくれた、気のいい奴等でもあった。

何故に彼らはそんなに武器を所有しているのか?
それは、イエメンでは(と言っても、山岳地帯の山の中に住んでいる部族民は)昔から、部族間の抗争が絶えず、しかも中央政府のいう事は信じる気がさらさらないし、自分たち独自の法律の方を重要視する傾向にあった。部族間の抗争の為に、自分や家族や、部族を死守するのは自分達の力で、という意識がとても強いのである。その為、未だに、銃などの武器を所有しているのである。
だから、イエメンに行くときは、山岳地帯にふらふら入っていったりしたら、襲われる可能性があると言った、ドバイのパキスタン人のタクシーのおじさんの言うこともあながち嘘ではなかったのだ。



14、ここはゲイの国?

街を歩いている男達が、みんな、手をつないで歩いているのを何度も見かけた。
男同士で手をつないで仲良く、歩いているのである。
それを最初見かけたときは、ここは、もしかして、あまりにもイスラムの戒律が厳しくて、女性と知り合えないから、ゲイが異常に多い国なのだろうか?と思ってしまったものだった。しかし、いくらゲイが多いとは言っても、あまりにも手をつないで、堂々と歩いている様を見て、ゲイをこんなにおおっぴらにするなんて、ビックリ〜と思っていた。
やたらとゲイに対して、寛大な国なのか?そんなこと聞いたことないぞと思い、思いあまって、ガイドに尋ねてみた。
すると、彼は「あはははは〜」とさも、おかしそうに笑って、「それは大きな誤解だよ。イエメンじゃあ、ああやって手をつないで歩くのは男同士の友情を表していて、仲がいい奴とは手をつないであるくのは、普通のことなんだよ。」と言う。
え??男同士の友情の証として、手をつなぎ合って歩くぅ?
何だか、最初は慣れなくて、とても違和感だったが、帰る頃には手をつなぎ合っている彼らを微笑ましく思った。何だか、み〜んな、仲良しこよし状態なのである。男女で仲良く手をつないでいるのは一度も見かけなかったが、男同士、老いも若きも手をつないで歩いているのは、何とも可愛いのである。
しかし、想像してみると、笑えるだろう。
アラブ特有の立派なヒゲをたくわえた、顔の濃い男同士がずーっと手をつないで歩いているのだから。


どうぞ続きをご覧くださいね。

もう、帰りたいよぉ〜ってな方は、 こっち