武田 久の美術観

   生前の武田久は、こと自分の絵画に関しては、広く世間に向かって鏡舌に語るようなことはほとんどしていない。しかし、氏と親しかった人々には、時折、自らの絵画に対する姿勢や美術表現に関する考え方を、明確に語っている。氏は、世問の人々が絵画というものに対して抱きがちなある種の先入観を疎み、絵画の基本は能動的な造形表現であり、決して、気まぐれな表現や思いつき、あるいは偶発的な心象表現ではない、ということをしばしば繰り返して述べている。そして、さらに、一人の画家がそれまでおこなってきた調査と研究、美学的見識、ならぴに磨きあげてきた表現技術というものの集積が、全て総合的に融合して一枚の絵になるのであって、その意味では、美術というのは、物理的および精神的に膨大なエネルギーを消費する表現手段であると語っている。実際、時間的な意味においても、ぷだん教職に携わっていた氏にとって、作品の考案や創作を行なうのはもっぱら夜であり、しばしばその制作は明け方までおよんだという。
 前述のような美術に対する基本的な考え方は、氏の抽象絵画と具象作品との関係を知る上でも重要な示唆を含んでいる。氏は、素人の美術愛好家から、「先生はなぜ抽象画を制作する一方で具象のスケッチを描かれるのですか?」「先生の専門はアブストラクトですかレアリスムですか?」という質間をよく受けると言って、しばしば苦笑いしていた。しかし、自明のことながら、氏の専門は抽象絵画であり、氏の心象表現を可能にする媒体はアプストラクト(抽象)以外の何ものでもない。氏にとっては、レアリスム(具象)において見せる表現力と抽象画の大作とは内的に帰結するひとつの環のようなものである。氏は、しばしば、スケッチやデッサンの指導の場において、「無駄な線というものはあり得ず、全ての線が必要なものとしてそこに生きていなくてはならない」と言っているが、そうした基礎的な描写力は、抽象の造形における内的印象の表現の際にも、審美的感覚の具現化に必要不可欠なものである、という内容を、氏は生前語っている。
 なお、氏の抽象絵画には、しばしば「魚」や「鳥」という題名が登場するが、この場含の鳥や魚は、具象表現としての鳥や魚とは全く別の次元でとり扱う必要がある。これらの抽象作品は、具体的な現実の魚や鳥を単にデフォルメして描いた物ではなく、彼の内面にある「人 イコール 生命」に関する種々のモティーフが、造形的に十分な計算に基づいて画面に構築されてゆくなかで、その断片的な構成要素がそのような形になって現れてきたという方がより正確である。むしろ、作品名の「魚」や「鳥」の意味は、「人 イコール 生命 イコール 美」のいわば同義語とも言えるものであり、題名の言語をそのように置き換えてみると作品がより理解しやすいかもしれない。
瀧の原パレット会

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